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空手とは?
 


空手の歴史

空手は中国武術が沖縄に伝わり、昔から沖縄にあった武術「手(てぃー)」とミックスされ「唐(中国)の手(てぃー)」すなわち「唐手」となりました。大正時代後半に近代空手の祖・船越義珍(ふなこし・ぎちん)先生らが日本本土に伝え「空手」となり、やがて「空手道」となったと言われています。

昭和初期、東京大学をはじめ各大学で「空手部」が設立されはじめ、町道場も少しずつできてきました。関東では東大、慶応大、早稲田大、東洋大、拓殖大などが先んじて空手部を作り、関西では立命館大、関西大、同志社大などが活動し始めました。

当時、空手には様々な流派がありましたが、船越先生の伝えた空手には流派名がありませんでしたが、船越先生の雅号である「松濤」の言葉を取って門下生たちが「松濤館の空手」と呼ぶようになったそうです。

戦後、拓殖大のОBでもある中山正敏先生を中心として日本空手協会が設立され、船越先生が主席師範となられました。空手協会は国内はもとより海外への空手の普及に努めるため、多くの若い指導者たちがまだ見ぬ海外へ雄飛し、世界各地に空手の種をまきました。

現在、世界に普及している空手のもとをたどれば、この空手協会の指導員たちの活躍があるのです。

昭和三〇年代半ばに空手協会と学連(全日本学生空手道連盟)がほぼ時を同じくして、競技大会を開催しました。

それまでは道場稽古と交歓稽古しかなかったのが、いち早くルールを整備して競技化に踏み切ったのです。
これも現在、世界で行われている空手の競技大会の原点だといえるでしょう。



船越義珍先生と松濤館空手


船越義珍先生には二人の師がいるといわれています。すなわち糸洲安恒(いとす・あんこう)先生と安里安恒(あさと・あんこう)先生です。

沖縄の空手には当時、大きくわけて三種類あり、それぞれ地域の名前がつけられていました。例えば那覇の空手は「那覇手(なはて)」、首里の空手は「首里手(しゅりて)」、泊の空手は「泊手(とまりて)」です。
那覇手は今でいう剛柔系の空手でねっとりとした動きが特徴です。一方、首里手は今でいう松濤館・和道流で、直線的な動きが特徴です。泊手はいまいちわかりません。

この話の流れからいくと、泊手は那覇手と首里手の中間かと思われそうですが、そうではなく、
むしろ中間なのは糸東流です。

なぜなら糸東流の流祖・摩文仁賢和(まぶに・けんわ)先生は首里手の大家・糸洲安恒先生と、那覇手の大家・東恩納寛量(ひがおんな・かんりょう)先生という大家二人から空手を学び、流派名を先生の頭文字を取って「糸東流」としたからです。

船越先生が師事した糸洲安恒先生と安里安恒先生はどちらも首里手の空手だったらしく、ですから船越先生のもたらした松濤館はバリバリ直線的な首里手なんです。

大正11年に東京・お茶の水で行われた文部省主催の体育博覧会というのに、船越先生は沖縄の空手を紹介するべくはるばる本土までやってきました。

そこで空手の演武を行ったのをきっかけに、多くの人たちから乞われて東京に滞在し、空手を指導したそうです。
当初、船越先生は流派名は名乗らなかったのですが、周りの人たちが船越先生の雅号の「松濤」をとって松濤の館「松濤館」という名前が生まれました。(つづく)

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